偉人・武辺寛則のガーナでの偉業をまとめます(^^)
『世界ナゼそこに日本人 DJKOO発見!南米チリで自給自足&偉人伝説2HSP』4月15日放送で、ガーナで有名な日本人偉人として紹介されたのは、武辺寛則(たけべひろのり)さん。
武辺寛則さんはなんと、ガーナではあの野口英雄よりも尊敬されている日本人だというんです!
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ガーナで #野口英世 より尊敬される日本人偉人とは⁉️#新井恵理那 pic.twitter.com/CCbSNbpdz4— テレビ大阪宣伝部 (@tvosendenbu1) April 15, 2019
そんな武辺寛則さん、いったいどんな歴史的偉業を成し遂げたんでしょう?
なんでも、ガーナで異例中の異例、26歳の若さで外国人長老となった方だとか。
武辺寛則さんのガーナでの偉業について、詳しく調べてみました!(^^)!
武辺寛則の偉業とは?
武辺寛則さんは、青年海外協力隊員としてガーナで最も貧しい村の一つだったアチュア村の発展支援の活動を行った日本人です。
武辺寛則さんはアチュア村で、「自給自足の村で、現金収入の向上を計るプロジェクトを、村民とともに企画・実行する」という役割の元、活動されました。
具体的には、養鶏やパイナップル農園という事業を普及させたのです。
武辺寛則さんがアチュア村で活動を始めて1年9か月が経った頃、村の発展のために全力で働いてきた功績が認められ,長老たちにより「ナナ・シンピ」という役職を与えられました。
この「ナナ・シンピ」というのは、村でNo.3の立場にあたる長老、名誉酋長ということです。
当時、わずか26歳の外国人が村の長老になるということは、異例中の異例だったそうなんです!
武辺寛則さんは最初、「いつかは村を離れる人間なので、こんな責任ある仕事はとてもできない」と断ったそうです。
ですが、「たとえ日本に帰っても、ナナ・シンピになっていればきっとアチュア村のことも忘れないだろう。それにもう1年以上ガーナにいるのだから,是非とも引き受けてもらおうと話し合いで決まった」と長老に説得されます。
そこで1988年9月のアチュワ村収穫祭の日、武辺寛則さんは伝統衣装と装身具を身にまとい、アチュア村のナナ・シンピに就任したのです!
その後武辺寛則さんはパイナップルの市場を拡大するため,国外への輸出を計画。
養鶏とパイナップル農園の二つの事業がアチュア村に定着するまで活動を続けるため、任期を一年延長したそうです。
そんな矢先の1989年2月25日、村の病人を幹線道路まで運ぶために武辺寛則さんが運転していた小型トラックが横転しました。
武辺寛則さんはこの事故により、わずか27年の生涯を閉じたのです。
武辺さんが亡くなってから半年後、収穫を迎えたパイナップルは出荷。
のちに首都アクラ、さらにはヨーロッパにまでアチュア村のパイナップルが出荷されるようになったのです!
その現金収入により、アチュア村は大きく変わりました。
村人たちがお金を出し合い、電気や水道などのライフラインが整備されていったのです。
ガーナで最も貧しい村のひとつだったアチュア村でしたが、豊かな村へと変わっていきました。
それだけではなく、未来を信じて前向きに生きる人々の笑顔が村中に溢れるようになったのです。
武辺寛則さんが小さなころに夢見た風景が、そこにはありました。
武辺寛則の経歴は?
1961年、武辺寛則さんは長崎県佐世保市に生まれました。
アフリカにはミーアキャットという動物がいることを知った武辺寛則さん。
「獣医になってアフリカに行きたい」と思ったそうです。
武辺寛則さんが10歳の時、新聞のある記事に目を留めます。
それは、「アフリカに行っている日本人がいる」という、青年海外協力隊の募集記事でした。
そんな記事を読んだ武辺寛則さんは次第に、「アフリカに行って貧しい人たちを助けたい」という夢を抱くようになりました。
ですが、武辺寛則さんは進学してく中でアフリカへの想いを口にすることはなかったそうです。
大学卒業後、福岡の商社へ就職した武辺寛則さん。
ビジネスマンとして順風満帆な生活を送っていました。
しかし、武辺寛則さんは入社して2年で会社を辞めてしまったのです。
それは小さなころに抱いた、「いつか青年海外協力隊員になり、アフリカで困っている人を助けたい」という夢をかなえるためでした。
こうして1986年の武辺寛則さんが25歳の時、ボランティア団体を通じてガーナへ向かったのです。
武辺寛則 ガーナへ行く
当時のガーナは、主要産業であるカカオの市場価格の急落により大不況でした。
ガーナは当時、アフリカの中でも最も貧しい国の一つだったんです。
武辺寛則さんが行ったのは、ガーナの首都・アクラから西へ120キロ、人口わずか300人足らずのアチュア村。
アチュア村は当時電気も水道もなく、自給自足で何とか生計を立てているというガーナで最も貧しい村のひとつだったそうです。
1日に1握りの穀物と、コップ一杯の水でしのぐ村の人々。
そんな現状を初めて目の当たりにした武辺寛則さん。
「村の現状を自分が救いたい」と思ったそうです。
村にやって来た武辺寛則さんに、ある村人がいきなりこう言ったそうです。
「何をしてくれるんだ?」と。
武辺寛則さんは、「やるのはあなたたちです。僕は未来に向けて、アチュワ村を豊かにする手助けをしたいんです」と答えたそう。
しかし村人は、「未来?この村を豊かにする?何を言っているんだ。話しにならねぇな」と言い帰ってしまったそうです。
生まれたときから貧しいことが当たり前のアチュア村の人々は、自分の力で生活を豊かにするという発想はありませんでした。
彼らにとって協力隊員は「直接的な援助を与えてくれる便利な存在」でしかなかったのです。
短期収入向上を目的とした養鶏を提案
武辺寛則さんはまず、村内の戸数や人口の調査をすることからはじめました。
そこで村の農業収入の増加を目指すため、養鶏に力を入れようと考えます。
というのも、 実はガーナ人は無類の卵好き!
”養鶏場を作って卵を生産し、首都で販売すれば現金収入が得られる”
「こういう仕組みにより儲かることさえ村人に理解してもらえれば、みんな喜んで参加してくれる」武辺さんはそう確信していたそうです。
しかしこの年、アチュワ村のあるガーナ西部は干ばつに襲われ、トウモロコシなどの農作物が壊滅的な被害を受けていました。
そのため、村人たちには未来を考える余裕はなく、今日食べるものさえない状況でした。
武辺寛則さんは、様々な支援団体に食料援助を要請し、アチュア村は何とか一息つくことができました。
ですがこのままでは、干ばつが起きるたびにアチュア村の人々は飢えに苦しむ。
武辺寛則さんは養鶏場の失敗をふまえ、新たなプロジェクトをにつけるために村中を探し回ったのです。
武辺寛則とファンティパイナップルの出会い
ある日、干ばつにも枯れることのなかった果実「ファンティパイナップル」を持っている村人と出会った、武辺寛則さん。
ファンティパイナップルとは、一般的なパイナップルよりも小ぶりで青っぽいがパイナップル。
酸味が少なく甘みもたっぷりで、首都アクラでも人気がある果物でした。
パイナップルは売値は高いけれど苗も高い。
また、収穫までに1年半もかかる。
そのことから、明日の生活も分からないアチュア村では、数名の村人が自分で食べるために細々と栽培しているにすぎなかったそうです。
しかし、ファンティパイナップルは、1本につき5〜6本の苗が生える。
そのため、最初のファンティパイナップルの苗さえ購入すれば、毎年増えていく。
養鶏と違い、維持費がほとんどかからない!
そう気づいた武辺寛則さんは、ファンティパイナップルの栽培をしようと村人たちに呼びかけます。
しかし、アチュア村の人々に苗を買うお金はなく、現在栽培されているわずかなファンティパイナップルの苗を増やすとしても、1年半以上はかかってしまう。
パイナップルの栽培は養鶏同様、現実的なアイディアではないと思われました。
ですがその1か月後、なんとアチュア村にファンティパイナップルの苗が届いたのです!!
実は武辺寛則さんは、各国の大使館をかけずり回って援助を要請。
苗を買うために必要なお金を、集めて回っていたのだそうです。
ですが武辺寛則さんの「アチュワ村パイナップル協会」計画に賛成してくれたのは、村の3分の1ほどの村人だけでした。
それでも、武辺寛則さんと、プロジェクトに賛同してくれた65人の村人たちの挑戦は始まりました。
しかしここからが、本当の苦難の始まりだったそうです。
- 栽培用の畑を一から開墾。 農業用の機械などあるはずもなく、全てが手作業。
- 武辺さん自身農業は全くの素人だったので、最適なパイナップルの栽培法を求めガーナ中を飛び回り、農業指導をしている隊員に相談。 夜は、土壌改良の方法など、慣れない農業の専門書を読み漁り、日中は気温40度を超す酷暑の中、先頭に立って働き続けた。
- それまで楽な焼き畑農業しかしてこなかった村人たちにとってパイナップルの栽培はとても手間のかかるもので、作業をサボる村人たちが少なくなかった。
このように、パイナップルの栽培は一筋縄ではいきませんでした。
ですが、武辺寛則さんは文句ひとつ言わず、誰よりも率先して懸命に働いたのです。
そんなある日のこと。
風土病のマラリアにかかり、倒れてしまった 武辺寛則さん。
マラリアは蚊が媒介し40℃を超える高熱に襲われ、最悪の場合は死に至る危険性もある伝染病です。
過酷な肉体労働で疲労が蓄積し、極度に免疫力が低下していた武辺寛則さんは1年間に3度もマラリアにかかってしまったといいます。
それでも畑に出ようとする武辺寛則さんの姿を見たアチュア村人のマイケル。
「なんで村のためにそこまでするんだ?」と聞いたそうです。
すると武辺寛則さんは「僕の夢だから」と答えたのだそう。
「アフリカで困っている人を助けたい…」
そんな武辺寛則さんの幼い頃の夢を乗せてようやく植えられたパイナップルの苗は、順調に成長し始めました。
そんなある日、プロジェクトにずっと反対していたジョーという村人が、自分もやってみたいと言ってきたのです!
パイナップル作りに参加する村人は、ひとり、またひとりと増えていったそう。
アチュア村の村人たちの意識は、武辺寛則さんの行動を見て少しずつ変わり始めていました。
長老ナナ・シピとなった武辺寛則
1988年9月24日、アチュア村で長老ナナ・シピという役職を与えられた、武辺寛則さん。
ナナ・シピは、村のNo.3の立場にあたるまとめ役。
武辺寛則さんさんは一度は断ったものの、
「たとえ日本に帰っても、ナナ・シピになっていれば、きっとアチュワ村の事も忘れないだろう。」
という村全体からの言葉をくんで、受け入れたそうです。
27歳という若さで命を落とした武辺寛則
武辺寛則さんとアチュア村の人々の努力が実を結び、なんと国外への輸出も手がけるほどに発展した、パイナップルの栽培のプロジェクト。
武辺寛則さんがアチュワ村で活動し2年を過ぎた頃、武辺寛則さんは病気の村人を運ぶ最中、そのトラックの横転事故で命を落とします。
事故後に行なわれた懸命な治療も虚しく、1989年2月25日、武辺寛則さんはわずか27年の生涯を閉じました。
アチュア村のマイケルは悲しみに暮れながらも、武辺さんの夢を引き継ぐことを決意。
畑に向かったマイケル同様、他の村人たちも畑仕事を続けるために集まって来たのです。
それは、かつての村人たちの姿ではありませんでした。
武辺寛則さんという偉大な指導者を失っても、諦める者は誰もいなかったそう。
そこには、未来に向けて自分たちの意志で歩み始めた村人たちの姿がありました。
今でも村人に愛される武辺寛則
武辺寛則さんの死後、アチュワ村には「タケベガーデン」と名づけられた記念公園が建設され、慰霊碑も建てられた。
これは、武辺寛則さんの功績をたたえるものでした。
費用を出したのは村人たち
記念碑があるタケベガーデンは、今も大切に守り続けられているそうです。
そして、武辺寛則さんが亡くなった2月になると毎年、彼の意志を後世に語り継ぐために村を上げての盛大なセレモニーが開催されています。
実は、亡くなる半年前、ガーナで遺書を書いていた武辺寛則さん。
「私はとても穏やかな気持ちでこの手紙を書いています。私の体に間違いが起こったときのために残しておきます。僕は自分自身で選択した道で、こうなったのだから後悔はありません。最後に自分の死に際して、もしも集まるお金があれば、恵まれない人のために使って欲しい。」
武辺寛則さんの遺書にはこう記されていたといいます。
そんな息子の遺書を読んだご両親は、武辺寛則さんが残していた遺書に従いました。
武辺寛則さんの葬儀で寄せられた弔慰金を子どもの教育に使ってほしいと、アチュワ村の保育所建設のために寄付したのです。
そして現在でも、武辺寛則さんのご両親は定期的にこのアチュワ村を訪問しているそうです。
2009年にアチュワ村を訪れた武辺さんのご両親は、村の人たちからあるものが欲しいと要望されたといいます。
それは、武辺寛則さんの生前の写真だったそうです。
「村が続く限り、武辺さんのことを子孫にも伝えていきたい」という村の人たちの熱い想いに、ご両親は写真を綺麗な額縁に入れ、アチュワ村の人々にプレゼントしました。
アチュワ村では、この村の発展に貢献した武辺寛則さんのご両親を毎回歓迎し、生まれてくる村の子どもたちにも武辺寛則さんのことを今でも語り継いでいるのです。
武辺寛則さんが情熱を注いだアチュワ村のパイナップル栽培は、現在では山一面に広がり、欧州にも輸出されるほど村の収入源として完全に定着しているそうです。
武辺寛則さんは、隊員時代の自身の日記にこう綴っていました。
「手がけてきた活動は、すべて村の人たちやガーナに派遣された他の協力隊員たちの協力を得たものであり、常々感謝の気持ちが絶えることがない。」
そして、武辺寛則さんがガーナに来て学んだ多くの中の一つで、日ごろから教訓としていたセリフがあるそうです。
「意志ある所、道は通じる」
必ず目標を達成するという強い意志があれば、試行錯誤しながらも何らかの方法が見つかるという意味のこの言葉を教訓に、武辺寛則さんはガーナで偉業を成し遂げたのです。
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