2018年10月13日(土)22時10分~23時10分放送の
「陸海空 地球征服するなんて」
今回の放送は「台湾で一番有名な日本人は誰!?」です(^O^)
親日国家として知られている台湾ですが、その台湾の人々のために偉大な功績を残した日本人がいることがわかりました!
詳しく調べてみましたよ(^_^)
台湾で一番有名な日本人 TOP10!
こちらは番組放送後に追記しますね\(^o^)/
台湾で一番有名な日本人とは・・・
10位 阿部 寛(俳優) 25票
9位 大谷主水(タレント) 27票
7位 安室奈美恵(歌手) 30票
7位 大谷翔平(野球選手) 30票
6位 八田与一(土木技師) 32票
5位 福原愛(卓球選手) 34票
4位 渡辺直美(芸人) 39票
3位 イチロー(野獣選手) 41票
2位 新垣結衣(女優) 42票
1位 木村拓哉(俳優) 64票
水利技術者・八田與一
八田与一(はった よいち)とは、台湾に東洋一とも言われるダムを建設した人物です。
八田与一(旧字体では與一)は、1886年(明治19年)2月21日に石川県河北郡花園村(現在の石川県金沢市今町)に産まれました。
1910年(明治43年)に八田は、東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職しました。
台湾ではマラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当していましたが、その後、発電・灌漑事業の部門に移っています。
1910年総督府土木部工務課に所属。
八田が28歳の時、当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任された八田はこれを成功させ、高い評価を受けました。
八田与一の偉大な功績 烏山頭ダムの建設
八田与一が台湾に残した大きな功績は、烏山頭ダムの建設です!
この烏山頭ダムの何がそんなにすごいのか、まとめてみましたよ!(^^)!
八田与一の考えた「嘉南平野開発計画書」
1918年(大正7年)、台湾総督府の土木技師であった八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行いました。
八田は、15万ヘクタールという台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地である嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この地を台湾の穀倉地帯にできると考えました。
嘉南平野は亜熱帯性気候で、1年に2.3回もの収穫を期待できる地域ではありましたが、水利の便が問題でした。
降水量は年間2,000ミリを超える豊かさではありましたが、河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期には手をつけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干上がる始末でした。
農業生産も天候任せできわめて不安定で、低水準でした。
そこで八田は、「嘉南平野開発計画書」を作り上げました。
それは、台南市の北を流れる官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んで烏山頭に当時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を張り巡らせるという壮大な計画でした。
この嘉南平野開発計画には地元嘉南の農民たちも熱い期待を寄せ、「出来る限りの経費と労力を自分たちで負担する」とまで書かれた嘆願書が幾度となく総督府に提出されたそうです。
予算はなんと総額4,200万円!!
これは当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上に及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠でした。
内地も米騒動などで大変な時期だったが、1,200万円を国庫補助し、残り3,000万円を地元農民など受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して負担することになりました。
大貯水池・烏山頭ダム完成!
この嘉南平野開発計画のため、八田は国家公務員の立場を進んで捨て、官田渓埤圳組合付きの技師となり、1917年(大正6)から3年間現地調査と測量を行い、1920年(大正9年)9月1日の工事開始から完成に至るまで指揮しました。
そして1930年(昭和5年)、総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成したのです!!
実に10年近い年月をかけて完成しました。
満水時の貯水量1億5,000万トンというのは、世界有数のアーチ式ダム・黒部ダムの75%に相当します。
烏山頭ダムの数年後に完成した、東京都民の水がめとなっている広大な狭山湖の貯水量は1,952万トン。
烏山頭ダムは実にその7.5倍なんです!!
烏山頭ダムのすごさがうかがえますよね!(^^)!
ダムの堰堤部の断面は台形で、頂部幅9メートル、底部幅33.3メートル、高さ51メートル。
これを長さ1.35キロメートルにわたって、盛り土で作り上げています。
土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法を採用しています。
烏山嶺を超えて、ダム湖に曽文渓の水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘り、これで毎秒50トンの水を流し込んでいます。
当時のトンネルで最大のものは東海道線の熱海の丹那トンネルでしたが、それよりも15センチ大きい規模だったそうです。
また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされ、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及んでいます。
さらに給水門、水路橋、鉄道橋など、200以上もの構造物を作っています。
この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれています。
烏山頭ダムの完成後
5月15日、烏山頭ダムからの給水が始まりました。
しかし、15万ヘクタールの土地にはりめぐらされた全長1万6,000キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗るまでには、3年かかったそうです。
また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りは初めてだったので、東京農業大学出身の中島力男技師が農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導しました。
計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年かかりました。
しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7,000石→65万7,000石と6倍に、甘藷作は138万石→288万石と2倍に伸びました。
地元農民の増収金額も年間2,000万円以上に達したそうです!
彼らが事業費として2,739万円ものお金を負担したかいがありましたね\(^o^)/
また、総督府の補助金は2,674万円に上ったそうです。
色々な方に支えられて、烏山頭ダムが完成したんですね!
人格者・八田与一
八田与一には、数々の人間味あふれるエピソードが残っています。
人間関係を大切に
ダム建設に際して、作業員の福利厚生を充実するため宿舎が建設されました。
宿舎には、作業員やその家族2,000人が住みついたそうです。
学校や病院、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで作られ、地元民からも感謝されました(^_^)
八田の子供達も台湾人の子供と一緒にこの学校に通ったそうです。
工事現場は夜遅くまでこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前。
そんな建設現場では「人間関係が大事」だということを知っていた八田は、よく作業員の宿舎に上がり込んでは、彼らと花札に興じていたんだとか。
分けへだてのない仲間意識
1922年(大正11)12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、ガス爆発事故が起こりました。
90m掘り進んだ所で石油が噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して爆発したのです。
日本人、台湾人あわせて50名以上の死者が出た事故でした。
八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走しました。
八田がいつもの作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田の言葉をおしいただくように聞き入り、嗚咽したそうです。
八田の「仲間を失った」という悲しみが自然と伝わり、その心情が遺族の胸をうったのです。
工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人たちは、
「八田与一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているおやじがいるんだ。おれたちだってへこたれるものか」
と、逆に八田を励ましたそうです。
工事が終わりに近づいた昭和5年3月、八田は工事のために亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てました。
名前は亡くなった順からで、日本人と台湾人が混じって刻まれています。
こんな所にも、八田の分け隔てのない仲間意識が伺われますね(^_^)
八田の苦渋の解雇
爆発事故の翌年の12年9月、日本で関東大震災が起こりました。
死者10万余、全壊家屋12万8,000という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30%の復興支援の財政援助を申し出ました。
その結果、烏山頭ダム工事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解雇しなければならない事態に追い込まれました。
3年間苦楽を共にしてきた仲間を解雇することは、八田にとって身を切られる思いであったそうです。
八田は解雇者の再就職先を探すために、総督府のつてをたどったり、業者の縁故を頼って奔走しました。
見つけた斡旋先には、「工事が再開されれば、優先して再雇用する」という条件をつけたそうです。
有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もしたというのは、嘉南の人々に今も語り継がれているエピソードなんだそうです(^_^)
私もいろいろ考えた。確かに、力のある者を残しておきたい。しかし、能力のある者は、他でもすぐ雇ってくれるだろうが、そうでない者が再就職するのはなかなか難しい。今、これらの者の首を切れば、家族共々路頭に迷うことになる。だから、あえて、惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした。その穴埋めは、君達が残った者を教育し補ってくれ。辞めさせる以上、辞めていく者の就職口は、必ず私が見つけてくる。
出典:文献にみる補償の精神【15】『あえて、惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした』(八田與一・烏山頭ダム) – ダム便覧
八田夫妻の晩年
烏山頭ダムの完成後、台北に戻った八田。
台湾総督府に復帰し、1939年(昭和14年)には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられ、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事しました。
また対岸の福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしています。
八田は、台湾がさらに発展していくためには現地人技術者の養成が不可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市内に作りました。
この学校は年々発展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出しています(^_^)
大東亜戦争2年目の1942年(昭和17年)5月、八田は灌漑の専門家・南方開発派遣要員として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地を調査する任務のため、広島県宇品港で貨客船「大洋丸」に乗船し、フィリピンに向かいました。
5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、アメリカ海軍の潜水艦「グレナディアー」の雷撃で撃沈され、沈没。
遺体は1ヶ月以上も経った6月13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見されました。
7月16日、総督府葬をもって荼毘に付されました。正四位勲三等叙位叙勲。
享年56歳でした。
嘉南の農民たちは、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てました。
墓の建設以降、毎年八田與一の命日である5月8日に、嘉南農田水利会の主催により墓前での慰霊追悼式が催されているそうです。
烏山頭ダムに設置された八田与一の銅像
ダム完成後の1931年(昭和6年)、烏山頭ダム傍に八田の銅像が建てられました。
像設置を固辞していた八田本人の意向を汲み、
- 一般的な威圧姿勢の立像ではなく、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模している
- 碑文や台座は無く、地面に直接設置されている
という、住民の民意と周囲意見で出来上がったユニークな銅像は、同年7月8日八田立会いのもと除幕式が行われています。
銅像の八田與一は腰をおろし右膝を立て右手の人差し指で髪の毛をいじっている。これは考え事をしている時やイライラしている時の彼のお決まりのポーズで、大きくゆっくりグルグル回している時は機嫌がいい時、小さく早くひねり回している時は機嫌の悪い時だったとか。出典:勝美旅行社
その後、戦争末期に国家総動員法に基づく金属類回収令により供出された頃、この銅像は行方不明となりました。
戦後、地元民が隠して保管していたのが見つかりました。
大日本帝国の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた「蒋介石政権」のもとで、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険なことでした。
1949年には銅像は再び撤去され、1981年(昭和56年)1月1日に再びダムを見下ろす元の場所に設置されました。
2017年4月16日朝、銅像の首から上が切断されているのをダムの関係者が発見ました。
犯人は中華統一促進党に所属していた男で、同時期に台湾各所で頻発していた蒋介石像に対する悪戯への反発心が八田に向けられたとされています。
台南市政府からは、八田の命日である5月8日までに銅像を修復する意向が示され、許文龍が奇美博物館で保管していたレプリカを用いて修復されました。
台湾で有名な日本人・八田與一 まとめ
台湾で有名な日本人・八田与一さん。
政府関係者という訳でもなかった八田さんは、純粋に台湾の人々のためにこれだけの偉業を成し遂げたんです!!
他にも台湾で有名な日本人は誰がランクインするのか、
2018年10月13日(土)22時10分~23時10分放送の
「陸海空 地球征服するなんて 台湾で一番有名な日本人は誰!?」
の放送が楽しみです♪
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